Yukihy Life

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読了!「資本主義の終焉と歴史の危機」

だいぶ前に、こんな本を読んだ。

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

資本主義の終焉と歴史の危機 (集英社新書)

 

 

この本は学校の売店で平積みされていて、アマゾンの評価も非常に高かったので購入してみた。また、タイトルの「資本主義の終焉」という言葉に目に惹かれたからだ。

 

成長戦略はしてはいけない

この本では、今後生きていくために、「成長」という資本主義体制の根本を押し進めてはいけないということが述べられている。まさにアベノミクス第3の矢「成長戦略」。この方法を行ったとしても、決して日本の経済は回復することはないと書かれている。

どういうことか。それは資本主義という体制の性質にある。

 

資本主義の体制

資本主義とは、投資者が利益を見込めるところに投資をすることで、企業が活動をすることができ、その利益の一部を投資者に還元するということで成り立っている。利益を得ることができない産業には、投資されることはないので、成長することはできない。しかし日本は、バブルが弾けてから、不景気のため金利はどんどん落ちている。1999年から「ゼロ金利政策」という、金利をほぼ0に近づける政策をしている。金利を下げることによって、新興企業が銀行からお金を借りやすくし、日本を不景気から脱出しようとしたのだ。しかし日本の不景気は予想以上に深刻であり、ゼロ金利政策によっても景気は回復しなかった。僕は中学のときに、不景気のときは金利を下げることで世の中のお金をまわりやすくする。と習ったが、実際は全く景気に反映されていなかったのだ。

するとゼロ金利政策のデメリットが出てくる。投資が行われる機会は激減し、日本経済が成長しなくなってしまっている。そこで投資家たちは、グローバリズムの流れにのって、海外という新たな地理的フロンティアに投資をするのである。

 

「中心」と「周辺」

この本の中では、投資をする側を「中心」、投資される側を「周辺」としている。資本主義の根幹は、この「中心」が「周辺」に投資をすることで、成長と利益を生み出し続けるというシステムなのである。高度経済成長のときには、日本国内で「中心」と「周辺」が存在した。それにより日本国内の産業が投資され、成長することができる。しかし現在、日本国内に「周辺」は存在しない。産業が成熟化してしまっているのだ。そうすると当然、投資家たちは利益を生み出すために、周辺を求める。ここでうたわれたのがグローバリズムという概念である。

 

グローバリズムとは、「周辺」を増やすための口実

グローバルになることで、投資の地理的範囲が一気に広がる。つまり新たな「周辺」ができるのだ。「周辺」は中国や東南アジア、アフリカなど、である。繰り返すと、この資本主義体制を続けるためには、「中心」が「周辺」に投資を続けるという形がとられなければいけないのである。

しかし近年、発展途上国の急速な成長により、「周辺」が「周辺」として機能しなくなってきている。この本の題名にもあるように、資本主義の「終焉」が近づいてきているのだ。

 

あらたな「周辺」を求める

地理的な「周辺」が失われつつある今、資本主義を続けるためには、新たな「周辺」を開拓することが不可欠である。その「周辺」は、例えば技術革新などによる産業であったり、金融取引だったりする。しかしこういったことは、資本主義体制を「延命」させているだけであり、永遠に技術革新が続いたり、火星に行けるようになったりして地理的フロンティアが広がらない限りは限界があるのである。

 

国内に「周辺」をつくる

さらにはこの本では、「周辺」が失われつつある現在、意図的に「周辺」が作られている。とも書かれている。発展途上国という「周辺」が失われると、国内に「周辺」が作られるというものである。それを表したもととして、例えばリーマンショックがあげられる。リーマンショックでは、サブプライム層という「周辺」の人間から「中心」が採取しようとしたことによって起こった。EUでは財政困難なpiigs(ポルトガル・イタリア・アイルランド・ギリシャ・スペイン)が「周辺」としてあげられており、日本では、非正規雇用者が「周辺」としてあげられている。こういった「周辺」を国内につくりだすことによって、「中心」は潤い続けられる、というわけである。

 

 

アベノミクス第3の矢は「成長戦略」であり、まさにこの資本主義による色を強めようというものである。しかしこの本で書かれているように、「成長」とは、資本主義の寿命を早めるだけであり、解決にはならない。資本主義体制でこのまま続けるには、むしろ成長を止める必要がある。そういったうまいバランスを保っていくというのが良いとこの本は主張している。

 

この本ではこういった内容を、歴史的なものとからめながら説明している。内容はとても論理的に書かれていて、すごく説得力がある。ちょっと解釈として間違ってたかもしれないけど、資本主義が抱えている問題というものが、近い将来やってくるのかもしれない。

 

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「教師の資質」 難しくなる教育内容と低下する教師の資質

 

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最近こんな本を読んでみました。

 

教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? (朝日新書)

教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? (朝日新書)

 

 

この本の著者は「教育を支える会」という団体の代表であり、現在過酷な状況にある教師という職業に関してサポートをしているそうです。

 

勘違いしないでほしいのは、この本は教師目線で教師の苦労を話しているわけではなく、親御さん目線、さらには生徒目線にも立って現在の教育について冷静な視点を与えてくれるものです。

 

 

僕自身も教師の資質について考えたことがあったので書いてみたいと思います。

 

まず、教師という職業は、子どもと生で触れ合う職業です。一般の企業などでも人と生で触れ合う職業というのはあると思いますが、多感な時期である子供と、ここまで長く生活するというのはものすごく重要なことです。

 

実際、自分を思い出してみると、今まで習ってきた教師の影響というものは計り知れないものがあります。自分の考え方・人との接し方・未来の考え方などなど、学習面だけでなく、良いところ悪いところどの点でも教師の影響は受けます。

 

しかしそこまで重要な職業であるにも関わらず、教師の能力というのはそこまで高まっていないというのが現状です。

 

総合大学の偏差値なんかを見てもらえば分かりますが、「教育学部」というのは他の「理学部」「経済学部」なんかと比べても低い傾向があります。また日本のトップである教育単科大学は東京学芸大学であり、偏差値は60ちょいくらいです。

 

偏差値の高い学生が必ずしも良い先生になるとは思いませんが、他の分野と比べても教育というものが少し軽視されているようでなりません。

 

また公立高校の教師は公務員ですので、大きな問題がない限りはクビになったりはしません。良い授業をしても悪い授業をしても給料に影響は出ず。大きな問題さえ起こさなければ良いので、「新たなことをしてやろう!」とか、「教育を変えてやろう」とか、そういった感情の人は少なく、安定志向の人が多いのではないかと思います。

 

授業の評価も一応はされますが、評価をする人はその学校の校長であるため、授業の内容で勝負するよりかは、校長と仲良くなる方が手っ取り早いのです。

 

本気で教育というものに人生をかけてやってくださっている先生は、どちらかと言うと校長に媚びている教師と対立する傾向があり、職員室の雰囲気を悪くしてしまうという結果にもなります。

 

こういったことから、教師の資質や能力は改善し辛くなっています。

 

しかし、最近の教育というのは、この本の中にも書かれているように、教科書の内容を分かりやすく説明するだけの仕事ではありません。

 

現在は教育の内容も変化して、子どもたちに、「自分で考えさせ、自分で解決させる」能力を身に着けるようにと方針が変わってきているのです。

 

授業の形態も、昔のように先生が質問をして、子どもたちが「ハイ!ハイっ!」と手を挙げる授業というのは少なくなってきています。それよりもグループを作り、生徒たちでディスカッションをして話し合う。という形態が増えてきています。

 

総合学習などでは、扱う対象も、環境問題・人口問題・原発問題など、大人が懸命に考えても一向に解決しないような問題を子どもたちで議論をさせるそうです。そして最終的には、どの意見が出ても「今の自分たちには何ができるのか」という部分に帰着させ、身近にある全ての現象が自分の生活と密接にかかわっていることを教え込むんだそうです。

 

「答えなき問い」が山積みのこの世界の中で、それぞれの問いに直面し、それをどう引き受け、どう答えていくか。そのことを私たちは日々問われているのです。

 

問題が出たときにAnswer(答える)のではなく、Responsible(答えられる・責任がもてる)子どもにする必要があるそうです。

 

こういった議題を授業の中で組み入れていくには教師はものすごくアンテナを張っていなければいけません。その分野に無知だったり、付け焼刃の理解では生徒の議論にすら負けてしまいます。

 

実際僕も実習で、物理の内容をこのようなディスカッション形式で行ったことがありますが、生徒からの脱線や新たな疑問というのは、僕自身も答えられないことも多く、得意分野の物理でさえ、議論を作り上げることはできないんだという経験をしています。

 

 本当に大丈夫なのでしょうか?

 

ますます教師という資質が問われる時代になっていきそうです。

 

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