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【読書メモ】教育という病 教育現場は病に犯されている

この本を読みました。

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

 

 

著者は名古屋大学の准教授の方で、普段より学校が抱えるリスクについて情報を発信しておられます。金髪がものすごく印象的な方です。

内田良の記事一覧 - 個人 - Yahoo!ニュース

 

発売されてからかなり売れているようなので、読んでみました。読書メモです。

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相対性理論に関して学べるおすすめ本!【一般向けの啓蒙書から専門書まで】

「時間が遅れる」「空間が曲がる」など、非常に難解だけれども現象としておもしろい相対性理論。これらに関して学べる本を選んでみました。

啓蒙書から、最終的には専門書までを難易度順に並べています(数学書は別)。後半、僕自身読めていないのもありますが、友人などの意見も交えてのものになります。

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雑誌「ニュートン」の別冊から僕が好きなおすすめの3冊をご紹介します

ニュートンは有名な科学雑誌で、去年まで購読していたのですが、最後まで読まなかったりしたので今では購読を止めてしまいました。ニュートンは基本的に月刊誌で、そのときの旬な話題を読むことができるのですが、月刊誌とは別に「別冊」として特集を組むことがあります。

この「別冊」のクオリティはハンパなくって、正直言って月刊誌よりすごいのではないかと思うのですが、如何せん高いんですよね…。あんまり冊数買うことはできないのですが、今持っている27冊の中から、特に面白かった3冊を紹介したいと思います。

 

「恐竜の時代」1億6000万年の歴史パラノマ

恐竜の時代―1億6000万年の歴史パノラマ (ニュートンムック Newton別冊)

恐竜の時代―1億6000万年の歴史パノラマ (ニュートンムック Newton別冊)

 

 あんまり別冊で恐竜をやってくれないのですが、ついに出されて速攻で買ってしまいました。有名な巨大サウルスたちがオールキャストで出席してくれて、非常に高まります。恐竜Q&Aのページでは、知らなかった恐竜の素性が次々に知れて感動したのを覚えています。進化の過程や、どのように過去の時代を解明していくのかもすごく面白い。だいぶ昔の話だけど、ニュートンならではの迫力が楽しめてずっととってあります。

 

みるみる理解できる「太陽と惑星」

みるみる理解できる太陽と惑星 (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ)

みるみる理解できる太陽と惑星 (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ)

 

 やっぱり宇宙は美しい!ニュートンの宇宙の絵は、正直かなり大げさに描いているのですが、それでもやっぱり宇宙の中の惑星は美しいと感じとれます。この本では太陽系の惑星、一つ一つに注目し、それぞれの地表はどのようになっているのか、惑星の内部はどうなっているのか、土星の輪っかは何なのかなど、普段目にしない部分まで分かりやすく図解されています。わりと最近買ったのですが、非常にインパクトがあって印象に残っています。

 

「現代物理学3大理論」相対性理論 量子論 超ひも理論

現代物理学3大理論―相対性理論 量子論 超ひも理論 (ニュートンムック Newton別冊)
 

相対性理論・量子論・超ひも理論なんて、それぞれ1冊ずつでもお腹いっぱいになりそうな内容なのに、なんとそれらが一冊にまとまっているという定食のような本。それまでにも相対論で2冊持っていたのですが、量子論と超ひも理論が気になって購入。それぞれかなり雑に書いてあるかな~と思ってみたら、普通にしっかり書いてあってビックリました。雑誌ニュートンの良いところですが、深入りするとややこしくなるような内容は、かなり本質的でもバッサリカットしてあるんです。あくまでも科学が趣味の人向けに書かれてあるので、非常に見やすい。そういった配慮が一番よく表れている本なのではないかと思います。相対論・量子論・超弦論。どれもすごく神秘的で僕も良く分かってないですが、何となくわかった気になれて嬉しい本。

 

他にも「別冊」はいろいろとおもしろいものがたくさんあるので、良かったら読んでみて下さい。

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続 読了!「生活保護VS子どもの貧困」

前回の記事の続きというか、同じ本についての感想です。

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

 

 前回の記事を読んでいないから分からないといった内容ではありませんが一応。

前回では、本の前半部分についての感想を書きました。内容は生活保護に関してですが、簡単に言うと生活保護の議論は、

「生活保護の不正受給が増えとるやないか!もっと厳しくしろ!」という適正化モデルの人たちと、「生活保護では生活が補えてないで!もっと甘くしろ!」という人権モデルの人たちの両極端に分かれていて、今の政府としては不正受給を取り締まる、適正化モデルの方向を示しているというところです。

適正化モデル

 目線:納税者

 強調すること:個人や家族の責任

 取り上げる事件:芸能人の母親の保護受給

人権モデル

 目線:利用者

 強調すること:政府の責任

 取り上げる事件:北九州孤立死事件

芸能人の母親の保護受給

2012年、某お笑い芸人が年収数千万円もちながら、自分の母親に生活保護を受給させていた。某芸人は飲み会の席で、「いま、オカンが生活保護を受けていて、役所から“息子さんが力を貸してくれませんか?”って連絡があるんだけど、そんなん聞いたら絶対アカン!タダでもらえるんなら、もろうとけばいいんや!」と話していたという。

北九州孤立事件

2006年12月、肝臓などを患い働くこともできなかった男性は、生活保護を申請。市は「働けるが当座の生活費もなく、電気やガス、水道も止められていることから、生活は逼迫している」として生活保護の受給を認める。その後、市は就労指導をするが、男性は「自立して頑張ってみます」と話して辞退届を提出。2007年7月に死後一カ月の状態で孤立死をしているのを発見される。一部ミイラ化した死体のそばには、「おにぎりを食べたい」「無理やり(辞退書)を書かせ、印まで押させ、自立指導をしたのか」「生活困窮者は早く死ねということか」と書かれた日記があり、市の対応が問題視された。

こんなところです。

こういった対立に対して筆者は適正化モデルと人権モデルの中間の位置である「統合モデル」という考え方を出しています。この考え方は、考えはそれぞれのモデルで、偏った考え方を主張しあうのではなく、まずは「頑張れば手が届きそうな、いまよりはちょっとだけましな社会」というものを目指すという考え方。そして生活保護の役割をトランポリンのような、受け皿が大きく、すぐに社会に跳ね返せるような社会にするべきというものだ。

僕自身の考えは前の記事に書いてある通りですけど、この文章を読むだけだと「筆者はすごく能天気な性格だな。適正化モデルと人権モデルの中間をすれば良いなんて無責任な本だ」と思うかもしれない。だが実際に多くの生活困窮者の支援などをしてきたこの筆者が言うので、本当にすぐにできることもできていない状態に陥ってるのではと思う。

前の記事でも書きましたが、生活保護を実際に受けている人は社会全体の1.6%しかいないので、こういった議論をするときにはどうしても多数対少数になってしまう。生活保護と無縁の生活を送っている人が大半だと思うので、少数派の意見をしっかり聞くことが大切です。

 

概要

 本の後半になると、子どもの貧困についても意見が述べられている。2013年、生活保護法の改定と共に、日本で初めて「貧困」と名のついた法律ができます。それが「子どもの貧困対策法」です。

第一条 この法律は、子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのないよう、貧困の状況にある子どもが健やかに育成される環境を整備するとともに、教育の機会均等を図るため、子どもの貧困対策に関し、基本理念を定め、国等の責務を明らかにし、及び子どもの貧困対策の基本となる事項を定めることにより、子どもの貧困対策を総合的に推進することを目的とする。

一次資料http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kodomo/kodomo_kosodate/dv/kaigi/dl/130725-02.pdf

 この文章からも分かるように、子どもの貧困問題というのは政府が手を出すほどまで、深刻化しています。子どもの貧困率は、先進国OECDの中で24位/34位(2008年 14.2%)と下の方に位置しています。この子どもの貧困化が進む原因として筆者は

①働く親の所得の現象

②ひとり親世帯の増加

が大きいとしています。貧困と本人の怠惰をすぐに結び付けたがる人がいますが、多くの場合、家庭環境に問題があることが多いのです

子どもの貧困が続くと、そのツケは社会全体に帰ってきます。例えば、18歳の高卒の男性が65歳まで生活保護を受け続けた場合と、職業訓練を受けて65歳まで正社員として働いた場合を比べると、後者の方が国の財政に1億円以上のプラスをもたらすそうです。そういった意味も込めて、社会保障は短期的な「コスト」ではなく、長期的な「投資」であると捉えるべきである

しかし長期的なメリットというのは実践するのは難しい。筆者は、生活困窮者支援を展開するために、三つの要素をサイクルさせることが必須であると言う。本中では「黄金の三角形」とされ、

①財源…まずは財源がないと何もできない。この財源によって実際に体制を展開する

②体制…財源を元に実際に困窮者支援の体制を整え、実践する。実践した結果は国民に評価される

③評価…体制の結果がどうだったか、評価する。国民が評価をすれば、大きな期待を込めて国民から財源が出る

といったものだ。これらは三つが全て成り立っていないと、継続的に社会保障を行っていくのは難しい。しかし現在の議論では「体制」ばかりに目がいきがちだと筆者は言う。「どんな体制にするべきなのか」「専門性のある職員がいない」「NPOの利点を行政が理解していない」などだ。そういった議論は決して無駄ではないのだが、「体制」のもととなる「財源」の議論がない。もっと言えば、その「財源」のもとである国民からの意識、つまり「評価」というポイントを無しにしての議論が多い。

この国民からの意識を高めるためには、基本的に「短期的」な結果を出さなければいけません。「短期的」でなければ国民としては納得しないからです。そうすると国としては同じ生活困窮者でも、すぐに復帰ができそうな比較的能力の高い者への支援に重心を置きます。その方が社会復帰率という数字が大きく出やすく、短期的に国民を納得させやすいからです。

しかし社会保障としての役割としてはそれではいけません。どんな生活困窮者にも平等に対応する必要があるからです。復帰しやすい者を選んで、復帰をさせるやり方は「短期的」にはすぐに効果はあるかもしれませんが「長期的」には一向に復帰ができない者が出てきます。先ほども述べましたが社会保障は本来「短期的」なコストではなくく「長期的」な未来への投資となるべきです。

筆者は最終的に

・「短期的」な政策で数字を出し、「財源」を確保するのと同時に「長期的」な政策により保障の能力を底上げする

・「長期的」な政策を検証し、国民に理解してもらうような新たな統計技術を出す

ということが大切だと言っています。一つ目のことは今までのことを組み合わせただけなので良しとし、二つ目の統計技術としてはSROI(Social Return On Investment:社会的投資収益率=社会的価値/投資額)というものが日本でも試行的取組がされているそう。

最後に、生活保護は今まで何十年も最後のセーフティネットとしての役割を果たし、様々な人を支えてきた。その役割を壊すことなく、次世代へと繋いでいくべき。としめている。

 

感想

 生活保護というシステムは、はるか昔にイギリスで誕生したみたい。成り立ちも国民からの強い資本主義体制への反発として、王政としても国民の感情を抑え、治安を維持するような目的として取り入れられたようだ。そういったことを考えると、生活保護というシステムは当事者に密着して考えられなければいけないし、政府の中だけで考えられるべきことでは無い。同時に、生活保護を受けていない人も安易に「受給者は穀潰し」と一蹴してはいけないところだと思う。

この本の中でも、民間の団体やNPOによる生活困窮者への支援というものがたくさん具体例に書かれている。生活保護の本当の最終的なセーフティネットは政府がつくるべきだけど、社会復帰させるとか、希望を持たせるとか、トランポリン的な支援は政府ではやり辛い。そういった支援は当事者と向き合ってやるものだし、だからこそNPOとかの活動が非常に有効な理由だと思う。

この本で一番共感したのは、p180の「お金を払って海外ボランティアに行く大学生たち」というところだ。確かに学生の意識の中で、ボランティアと言ったらアジアやアフリカ・南米を指すだろうし、一般的だ。日本国内の貧困問題なんて外国人に言ったら「そんなことある訳ない」と笑われると思う。でも現状はイギリスとかでも急速な貧困化が進んでいたり、どこの国でも十年先は分からない問題なんだと思う。国内ボランティアが非常に大きな社会貢献をしているというのもこの本から伝わってくる。

貧困の問題を後半で「短期的」「長期的」と時間で分けていたのはとても斬新だった。上の概要で書いた部分は、文章の言葉でまとめたと言うよりは、僕自身が結構いじくったりしたので、本当は少し違ったことを書いてしまったかもしれないけれど、僕の解釈というところです。

国民の感情は「短期的」な部分しか目を向けないというのは本当だと思う。実際、生活保護者が増えたときに「長期的」なロスを考える人というのは少なく、「月いくらも貰いやがって」という不満ばかりだ。政治家が目の前の減税増税ばかりを論点に選挙を戦うのと同じで、少子高齢化を第一に訴えることはない。「長期的」に考えるなら少子高齢化が一番の問題だと思うのに。

結局、何かを説得するのに、本当に効果のあることでも長期的な部分を訴えていたのでは人の感情は動かない。「半年間聞き流すだけ」みたいな嘘くささが付きまとうし、僕自身短期バイトなら日払いだし。だけど問題を解決していくならば、政策に付き合ってマクロ的に見る必要があるなと思いました。

最終的には信頼関係と正しい知識だと思います。信頼関係はほぼ無いと言って良いと思うので、正しい知識をつけていきたいです。

ちょっと最後の方論点がずれた気がしますが、良い本を読めました。

 

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読了!「生活保護VS子どもの貧困」

今回読んだ本はこんなものです。

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

生活保護 VS 子どもの貧困 (PHP新書)

 

 このブログでは何回か書評をやっていますが、僕は本当に何事にも無知な大学生であるため(自分を卑下しているというよりかは大抵の大学生はそうだと思うので)、こういったものを自分の言葉で書いていくことにより吸収しようというのが狙いです。

あんまり本の紹介とかはする気はありません。なのでブログを読んでいる方にとっては話題があっちこっちいったりすると思いますが申し訳ありません。何か間違っているところがあればコメントをいただければ本当にありがたいです。

さてこの本では、生活保護と子どもの貧困という二つの事象の関係性について述べています。

前半では生活保護の実態について、後半に子どもの貧困ということで、この二つはある意味似ていて、ある意味対立する内容です。まだうまく頭の中でまとまっていない部分もあるので、この記事ではまずは生活保護について記事にしていこうと思います。

概要

生活保護を問題にして議論をしたとき、世論は「我々の税金による生活保護を不正自給している人がいるなんてとんでもない!生活保護をもっと厳しくするべきだ!」というものと「生活保護を得ている人にも憲法で保障されている人権がある。厳しくされては利用者が生きてはいけない!」という意見に真っ二つに分かれるものです。この本では前者の考え方を適正化モデル。後者の意見を人権モデルとしています。

適正化モデル

 目線:納税者

 強調すること:個人や家族の責任

 取り上げる事件:芸能人の母親の保護受給

人権モデル

 目線:利用者

 強調すること:政府の責任

 取り上げる事件:北九州孤立死事件

芸能人の母親の保護受給

2012年、某お笑い芸人が年収数千万円もちながら、自分の母親に生活保護を受給させていた。某芸人は飲み会の席で、「いま、オカンが生活保護を受けていて、役所から“息子さんが力を貸してくれませんか?”って連絡があるんだけど、そんなん聞いたら絶対アカン!タダでもらえるんなら、もろうとけばいいんや!」と話していたという。

北九州孤立事件

2006年12月、肝臓などを患い働くこともできなかった男性は、生活保護を申請。市は「働けるが当座の生活費もなく、電気やガス、水道も止められていることから、生活は逼迫している」として生活保護の受給を認める。その後、市は就労指導をするが、男性は「自立して頑張ってみます」と話して辞退届を提出。2007年7月に死後一カ月の状態で孤立死をしているのを発見される。一部ミイラ化した死体のそばには、「おにぎりを食べたい」「無理やり(辞退書)を書かせ、印まで押させ、自立指導をしたのか」「生活困窮者は早く死ねということか」と書かれた日記があり、市の対応が問題視された。

生活保護に関して近年どのような話題があったのかを書くと、四つの転機にまとめられると筆者は言う。簡単に年表にすると、

2006 NHKスペシャルで「ワーキングプア」が放送され、国内の貧困問題がピックアップされる(人権モデル目線)

2008 リーマンショックにより、大量の派遣切り(人権モデル目線)

2010 前年や一昨年の年末に話題となった公設派遣村内で、利用者の態度の悪さが問題視される(適正化モデル目線)

2012 某お笑い芸人の母親が生活保護を利用していることが発覚(適正化モデル目線)

 

適正化モデルと人権モデルの代表として、財務省(適正化モデル)と日本弁護士連合会(人権モデル)の主張をまとめると、

 

①生活保護受給の急増は財政破綻を招くのか?

財務省の主張

・生活保護受給者は、現在211万人を超えて史上最高を示している(特に60歳以上)

・それに伴い、予算も急激に増加している(2000年→2012年で約2倍に)

・保護基準は、基礎年金や最低賃金とバランスを取らなければいけなく(生活保護が基礎年金や最低賃金よりも極端に高くなってはいけない)受給者が就労する動機を削がない程度の額にするべき

日弁連の主張

・生活保護利用者数でなく利用者率で比べると、そこまで高くはない(1951年2.4% 2011年1.6%)

・生活保護を受ける資格がある人の中で、実際に生活保護を受けている人の割合(補捉率)は、先進国の中でかなり低い(日本17% ドイツ65% フランス91% スウェーデン82%)

・日本の生活保護費の、GDPに占める割合は0.5%。OECD平均の七分の一ほどである

 

②生活保護基準は高すぎるのか

財務省の主張

・生活保護受給者が、受給していない低所得者よりも受給額が高いケースがある(夫婦子ども一人で1.1% 60歳以上の単身世帯で一割強ほど)

・毎月のお金の消費額も、受給者が受給していない低所得者を上回るケースがある

・外国と比べても受給額が高い(欧米3万 アメリカ1万6千 日本7万)

日弁連の主張

・生活保護は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を維持するためにあり、金額は妥当である

・生活保護の受給額を下げると、低所得者に対してもデメリットがある、内容は以下の通り

・住民税の非課税限度額が下がり、今まで非課税だった人が課税される

・非課税だと安くすんでいた介護保険料や医療費上限が下がる

・保険基準に基づいて利用条件を設定している施設が利用し辛くなる

 

③働ける利用者をどう対応するべきか

財務省の主張

・就労をし始めたとき、働いても働かなくても収入が同じという現象を起こさないようにする

・そのために「就労収入積立制度」(就労収入の一定額を仮想的に積み立て、安定就労ができて保護が廃止になるタイミングで一時金として支給する)の検討を行っている

日弁連の主張

・働かないのではなく、働けないというのが正確である

 

④不正受給対策はどうするか

財務省の主張

・福祉事務所の調査権限の引き上げや罰則の強化、扶養義務者の説明義務などをしていく

日弁連の主張

・不正受給は、割合では増えていない(2008年1.62% 2012年1.72%)。生活保護受給者が増えたので目立つようになっただけだ

・増えていない不正受給の割合よりも、数百万人の人が生活保護受給から漏れているいことの方が問題である

 

こういった実情を踏まえて、筆者は人権モデル、適正化モデルをどちらか一つを選んでいくことはできないとまとめている。生活保護の議論を考えると、対立するところにばかり議論が進んでいて、「合意がとれている課題をどのように解決していくか」という当たり前の議論がなおざりにされているという。双方の主張を通すことばかりではなく、現実的に解決可能な部分から優先的に取り組んでいく。筆者はこのモデルを「統合モデル」と呼ぶ。そして現実に立脚しながら、「頑張れば手が届きそうな、いまよりはちょっとだけましな社会」を大切にする。

生活保護受給を始めることを「入り口」とし、生活保護受給を終え、社会復帰することを「出口」とすると、

人権モデル…入り口が広く出口が狭い

適正化モデル…入り口が狭く出口が広い

と言える。つまり人権モデルは適正化モデルの入り口が狭いことを最も議論の争点にし、出口に関する議論が甘い。適正化モデルは逆である。統合モデルは入り口も出口も広いものを目指し、生活保護が社会復帰の再挑戦へのバネとしての働きを持たせることを特に重要視している。

 

感想

生活保護の議論をするときに気を付けなければいけないのは、生活保護を実際に受けている人はたったの1.6%しかいないというところ。生活保護は受けていない人からすれば当然穀潰しのように思うので、議論としても少数派と多数派になり、一方的に不満を煽ったりしているところも多いように思う。2ちゃんねるとかの掲示板を見ても生活保護受給者が叩かれているのを見るのが多いです。

【2014年4月】生活保護給付額2.9%引き上げへ。消費増税に対応。 : 職業ちゃんねる

この本ではそういった偏見なしに、人権もモデル、適正化モデルの両方の立場を客観的に出しており、非常に分かりやすく相手の立場を知ることができます。

僕自身は運良く生活保護とは関わりのない生活をしていたので、生活保護受給者の不正のニュースが流れる度に嫌な思いをしていました。生活保護費をもらった人がすぐにパチンコ屋に入ったり、無くしてしまったと嘘をついてもう一度受け取りに行く人などがテレビで問題になったりしているとイライラもしたし、規制を緩和していく民主党政権にも疑問をもったりもしました。けれどもそういった生活保護の人がどういった生活をしているのかを僕は知らないし、厳しい生活環境なんだなという書面でしか知ることはありませんでした。そういった面で派遣村に実際に行ったりしている筆者が書いたこの本を読んでいろんな驚きがあります。

まずしっかりと押さえなくてはいけないのは、生活保護受給者は割合で見ると増えていないというところ。この10年間ほど、生活保護に関する政策というのは統一性がなくいろんな改変を行っているけれども、決して不正の割合は減ることはありません。どこの業界にも不正のプロというものはいて、政策が変わればその政策の穴をぬって不正受給をすることは防ぎようがないのだと思う。

僕自身は生活保護の補捉率があまりにも低すぎることに驚いた。日本国内では生活保護受給者に対しての差別というものがあまりにも激しい。生活保護=税金の無駄遣いと揶揄され、社会的にも制限されます。小学校に通っていても、生活保護受給者の子どもと分かると憐れみの目で見られ、そういった日本人的な価値観から生活保護というものが非常に頼りにくくなっていて、特に老人の方たちは娘や孫に迷惑をかけるのならば申請をせずに暮らそうとしているパターンが多いみたい。

一方で受給者の態度というものも問題があることは確かです。一旦生活保護を受給し始めると6カ月以内に復帰ができないとほぼそのあとに復帰をするのは困難で、結果的に生活保護を受け続け、努力をすることをあきらめてしまう人も多い。生活保護を受けている人は、コミュニケーション能力不足や生活環境、障害の有無など何かしらのハンディキャップを持っている人が多く、そういう人を僕たちが安易に「努力不足」と切り捨ててしまうのもかなり単純で浅はかな考えです。金銭的な補助だけでなく、その個人がスキルアップできるような部分まで政府の役割として加えていくべき。

生活保護の役割として筆者は「社会復帰へのバネの役割を増やす」とあるけれど、それだけではいけない気がする。残念ながら生活保護受給者の中には社会復帰を全く考えていない人もいるからです。社会復帰をしてもらえる収入が下がったりするのならば、もはや復帰をする意味はなですし。

僕はこういった人には諦めて、社会復帰を目指さない人向けの保障を別に与えればいいのではないかと思う。社会復帰を目指さない人に保障を与えるとは何事か!むしろ生活保護の支給を止めるべきだ!となりますが、生活保護を受けれなくなった人は「亡くなる・罪を犯して刑務所に行く・ホームレスになる・精神病で入院」の四択になります(本書p135)そしてそのどれに当てはまっても生活保護以上の税金を使う必要があります。以前どこかの番組でもやっていましたが、近年刑務所の高齢化が進んでいるそうです。家で年金暮らしを細々と暮らすのなら罪を犯して刑務所に入った方が生き生きとした生活ができ、三食付きで仲間もいる。受刑者用の仕事もあるし、もしものことがあればすぐに入院もできる。テレビでは刑務所の職員が老人の介護をしている様子が映っていました。刑務所が第二の介護施設になっているのです。しかし刑務所で面倒を見るというのは非常に大きなコストがかかってしまいます。

憲法で最低限度の生活を保障している限り、生活保護という形で押さえるのが一番社会的にも効率が良いのです。しかし全員それではいけないので、社会復帰を考えている人には社会復帰ができるような資格や技術支援を行い、支給額も上げる。こういった用に受給者に選択式にしても良いのではと思います。もちろん社会復帰を諦めた方たちには最低賃金よりも低い額にしてもらいたいです。

 

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読了!「名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉」

今回はこんな本を読みました

名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (光文社新書)

名ばかり大学生 日本型教育制度の終焉 (光文社新書)

 

 かなりタイトルにつられて購入した感はあり、買った後に少し後悔しましたが、内容を読んでみると、しっかりしたボリューム感のある本でした。この本では主に「大学生の学力低下」について論じられています。しかし、その学力低下の原因は「大学生による怠惰のせいではなく、「大学というものの制度」にあるという立場から話しています。

 

概要

大学生の学力低下

「中位以下の」高校生の学力というものは、かなり落ち込んでいる。それにも関わらず、そういった人たちも多くの人たちが大学に進学をしている。大学進学率は先進国のなかで非常に高く、言わば「名ばかり大学生」が蔓延している。こういったように、ほとんど勉強をせずに大学に進学をする者は世界的に少なくない。だが決定的に世界と違うのは、「大学の中退率」である。日本の中退率は10%と低く、先進国の基準は31%、イタリアは55%にもなる。

少子高齢化が進む中で、大学の数は年々増加してきた。1993年から18歳以下の人口が減少することで、大学経営陣は短大を4年生の大学に変更して資金調達を試みたり、女子大学を共学にすることによって延命してきた。しかし近年その方法にも限界が見え始め、大学側は莫大な数の「繰り上げ合格」や、「AO入試」「推薦入試」など、試験を受けることなく入学できるようにしてきた。

こうして生まれた「名ばかり大学生」は、1970年代の暴走族に匹敵する学力の持ち主だ。

 

競争の激化による弊害

学力低下を防ぐためには、「大学入学の定員を絞ればよい」という議論があるが、それは世界的に見ても例にない試みというのみならず、定員を減らすことによって「競争が激化する」ことに問題があると指摘する。

「入学者の定員の減少」は、1970年末から1980年前半にかけて、愛知県の高校入試の際に実際に行われた。具体的には、中学時代に「人物総合評価欄」という欄があり、下位10%のC評価をつけられてしまった中学生は、その場で高校受験を断念しなければいけないというものだった。

この試みは「短期的には成功」し、「長期的には失敗」した。「短期的な成功」とは、愛知県の東郷高校は国公立合格者が続出し、また同県岡崎高校は東大合格者を一桁から30人以上まで伸ばすことができた。しかし「長期的な失敗」として、校内暴力・おちこぼれ・いじめ・女子高生の援助交際など、様々な問題を生み出すことになった。

学力=競争という構図が、親の間でも子どもの間でも広まり、「塾」という産業が急速に広まってくるのもこのあたりからになる。

 

学ぶ意思を奪う教育システム

学力=競争という構図が広まる中で、世の中の子どもたちには、学力というものの意味よりも、他人との「序列」という概念が広まる。また親の間でも、子どもの学力よりも子どもの「序列」を見る風習がうまれる。

東京大学の入試問題や、桜蔭中学の入試問題を1970年代のものと比較すると、とてつもなく難化している。トップ層は昔と比べて学力は低下しておらず、むしろ上がっているのである。問題としては、学力の格差が広がり、それを埋められないことにある。例えば桜蔭中学に入学するためには、小学生のころから普通の子と住み分けがされていなければならず「十二歳で配られるパスポート」として、その学力差は決して埋めることはできない。

 

学力格差はいかにして起こされるか

秋田県は教員などの工夫もあり、中学生の学力が全国トップである。しかし大学入試の際に行うセンター試験の順位は平均よりも低く、センター試験の順位が高いのは、東京や近畿地方が多い。

これは、東京周辺や地方周辺は、多くの学力中間層向けの大学があるのに対して、地方ではそれが無いということに原因がある。つまり東京周辺では、「上位学力→受験」「中位学力→受験」「下位学力→AOや推薦」とできるが、地方では、「上位学力→受験」「中位学力→AOや推薦」「下位学力→AOや推薦」となってしまい、中学歴層で、地元で受験しようという学生が、勉強を諦めてしまうからである。(AOや推薦が悪いと言っているわけではなく、またAOや推薦を受ける人が全員学力が低いと言っているわけではない。僕が勝手につけたイメージです)

また、東京や神戸などの教育熱心な家庭は、教育のために年間100万円を出費することをためらわない。こういったところと張り合うには、かなり無茶である。

このようにして起こされる学力の格差に加え、上から下まで拾い集める大学のシステムが、結果として大学生の学力低下の原因としている者は多い。しかしこれは間違っている。

 

大学生の学力低下の本当の原因は?

ある研究によると、4年間大学生の動向を追跡すると、「入試成績が良くても大学1年生で伸び悩むと、高い確率で専門課程でも良い成績を修められない」という結果がでた。言い換えれば「入試成績が低くとも、大学1年生で伸びれば、専門課程でも上位に入る可能性が高い」のだ。これは、高校の学力と、大学の学力は一致していないと言え、入学直後からの教育がいかに重要かということが確認される。

このようにとらえると、日本の大学生の学力の低下は、高校までの学力の低下とは関係がない。また「その学校に適した学力の者を選抜する」という大学受験の機能さえ、よく分からなくなってくるのだ。高校までの教育を、「ゆとり教育」と批判するのは間違っている。

日本型の一発受験型の入試が全く機能しなくなる日は近い。「ゆとり教育は悪い」と批判をして、さらに点数至上主義へと進むことや、急激な少子化によって、各大学の入学学力の基準は次々に低下し、「名ばかり大学生」を量産する。これに理系離れが加われば、中位私立の理科学部、地方国公立大学の理系学部のレベルは想像を絶するほど急に落ちるという。

 

今後の展望

「少子化」・「大学側の定員の拡充」・「競争の激化からの離脱」この3つにより、「名ばかり大学生」を量産している。これを打破するには、小手先の改革では決して解決はしない。

「名ばかり大学生」の量産を防ぐためには、「高校の学費・公費の負担」「義務教育終了の際に資格試験を行う」「日本の名著の読了を義務づける」などを導入するのと同時に、もっと入学しやすく、卒業を難しくするなど、大学内で学力がきちっと上がるような「アメリカ型」の大学にしていく必要がある。変えるべきなのは大学側である。

 

 コメント

 

「名ばかり大学生」という言葉を見て、てっきり内容は現在の大学生の不勉強さを熱心に語るという、よくある話のものだと思っていた。しかし内容を読んでみると、現在の大学生を否定するような内容は全く書いておらず、「大学という制度」という部分に焦点が置かれているものだった。途中の議論は非常におもしろく、特に「高校までの学力と大学での学力は関係がない」「大学1年生での学力が影響している」というところは今までに聞いたことのない話だったので非常に驚いた。

でも実際まわりを見渡してみると、大学生に入ってからの学力の格差というのは、けっこう大きく開いている。勉強する人は暇な時間を使ってものすごく成長しているし、何もやらない人は何もやらない。こういった人たちが同じ学費を払ってたり、はたまた奨学金をもらっていたりすると、ものすごく「大学って何でもありなんだな」と思ってしまう。実際今の大学生に、「大学は学習するところだ」という考えを持って暮らしている人は少ない。多くの人は大学に対してあまり期待はしていないし、大学を「社会に出るための準備期間」として捉えている。

何かの本で、大学の機能の低下は「大学」だけを改革するだけではダメだとあるのを見た。アメリカの大学がなぜあんなにも機能しているのかは、「大学」「学生」「企業」この3つが相互的に働きかけているからだと書いてあった。アメリカの「企業」は、大学卒の新入社員を決める際に「学生」の成績をかなり重視する。すると「学生」は必死になって勉強をする。日本の教授みたいに、「レポート書けばAだよ~」なんてことをやったら真面目に勉強している学生は怒る。このようにして「学生」は「大学」に働きかける。「大学」側は「学生」を正しく評価する必要があるので、1人1人真剣に指導するし、アメリカの授業は「学生」が「大学」の授業を厳しく評価もできる。こういった「大学」と「学生」の真剣勝負があるからこそ、「企業」としても「大学」の評価を信用して、「学生」の採用の基準に使うことができる。

こういったように、アメリカ型の教育を目指していくのならば、「大学」の改革だけでは無理で、「学生」や「企業」にも働きかける必要がある。そう考えると一筋縄にいかない問題なのだ。

この本では、「大学」のみに着目したものであったので、他に「大学」と「企業」についてとか、「大学」と「学生」について書かれた本とかを見ていこうと思った。

いずれにせよ、僕は義務教育のゆとりをやめることによって、学力が上がるとは思っていない。寧ろゆとりを止めることによって、ここまで減少しつつあった、いじめ問題や暴力問題などに繋がり、教員の仕事が増えるだけだと思っている。塾という産業は潤うけど、所得格差による学力格差が一層広がる。実際に学力の向上を考えたときに大事なのは、授業の「量」ではなく「質」を上げることであって、「ゆとりにしたのに授業の質が上がらなかった」のが、ゆとりが効果を出さなかった理由だと思う。教育の方向性も「知識獲得」から「知識を使う」方にシフトをすべきなのだ。つまりは教員の質という話になりそうだけど、今の教員は地獄のように忙しい…。ちなみに文科省は、今後、「ゆとり終わるから知識はたくさん身につけさせなきゃいけないけど、知識を使って議論したりするのも今まで以上にやってね」と無茶なことを言ってきている。建前上は「ゆとり脱却」だが、本音は「使える人材育成」なんだと思う。そのあたりの議論とかは、もう少し知識をつけてから、また記事にしたいなと思った。

最後まで見ていただきありがとうございます。

 

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